満州国で働いていたロシア人とは

満州国にはかつて豪華特急が走っていました。

あじあ号です

満鉄のシンボルだった特急「あじあ」

この列車は冷暖房完備、食堂車もあり、最高時速130キロで走行可能な、当時としてはオーパーツじみた特急でした。また、食堂車では女性のウエイトレスが働いていましたが、中にはロシア人のウエイトレスも働いていました。

当時の新聞や雑誌にもそのことについて言及している記述があります。

ここで疑問に思ったのが、満洲国は日本人、朝鮮人、満州人、中国人(中国本土の人々)、モンゴル人でそれぞれ手を取り合って暮らそうというようなスローガン(五族共和)があります。ここにロシア人は含まれていません。満州国とロシアは地理的に近い立地とはいえ、言い方が悪いですがロシア人は満州国の対象外のような扱いです。

(後で調べたのですが白系ロシア人もこの中に入っていたみたいです。詳しく調べれてないですが、ソ連に残ったロシア人に配慮するため、、とのこと?)

では満州国で働いていたロシア人はいったいなぜ満州に来てまで働こうと思ったのでしょうか。

白系ロシア人

結論から言うと、ここのロシア人は「白系ロシア人、もしくは関係者や家族」であった可能性が高いです。

白系ロシア人とは、ロシア革命により誕生したソ連政権に反発して国外に脱出したロシア人のことです。

ソ連に反発したという経緯があるので国からの保護や国籍も与えられず、放浪者のような生活を送っていたものと推測されます。

ちなみにですが、あじあ号以外でも働いていたとされる記述を見つけました。

バス案内は日本娘の外に一名のロシヤ娘が同乗してゐて、かなり流暢な日本語で特別な個所の案内をやる。ロシヤ人墓地の説明には此の小娘が当つてゐたが綿々たる哀訴の調子を尽して彼等の信仰告白を説いてゐて、白系露人の憐れな亡命姿を訴ふる様で旅人の哀愁を唆るものがある。

(引用(URL):https://r20115.hatenablog.com/entry/2019/11/16/210733

元の資料は 「松井正明著 鮮満一巡 : 附・転業対策卑見」 )

 

上記をAIに読みやすくしてもらいました↓

「バスには日本人女性の案内係だけでなく、若いロシア人女性も乗っていた。その女性は日本語が上手で、とくにロシア人に関係する場所を案内していた。ロシア人墓地では、亡命してきた白系ロシア人たちの信仰や境遇について、悲しげに、訴えかけるように説明していた。その語り方は、彼らが異国で暮らさざるを得なかった境遇を思わせ、聞いている旅行者にも哀愁を感じさせた」

 

さらにもう一つ引用します。

「哈爾濱には沢山の白系露人がゐる。自動車の運転士、ホテルのボーイや掃除夫、食堂や喫茶店の女給など沢山働いてゐる。〔……〕私はキタイスカヤといふ、東京なら銀座とふ目抜の通りの、某喫茶店で、ロシア式のおいしいサンドウヰツチとコーヒーを御馳走になつた。お客は日本人と白系露人ばかりで、給仕女は美しい白系露人の娘であつた。一般に白系露人は満洲事変以来、日本人のお陰で初めて保護を受け、ほんとに安心して住ふことが出来るやうになつたのであるから、日本人を心から尊敬し、日本語を盛んに勉強するさうである。その結果言語の通ずるところから次第に意志も通じて、日本人と結婚する娘も沢山出来、喫茶店で働く美しい金髪娘と、ローマンスを演ずる日本青年もちよいちよいあるさうである。喫茶店を出やうとすると、戸の外に赤髭さんが立つてゐて、戸を開けてくれる。そして手を出して錢を乞ふ。十銭掌に載せてやると丁寧に礼をする。これも白系露人である。」

(引用(URL):https://r20115.hatenablog.com/entry/2019/11/16/210733

元の資料は 「村野貞朗編 大陸みやけ話」 )

 

上記もAIに投げてみました↓

「哈爾濱(ハルビン)には、多くの白系ロシア人が住んでいる。自動車の運転手、ホテルのボーイや清掃員、食堂や喫茶店のウェイトレスなど、さまざまな仕事に就いている。

私は「キタイスカヤ」という、東京でいえば銀座のような繁華街にある喫茶店で、ロシア風のおいしいサンドイッチとコーヒーをご馳走になった。客は日本人と白系ロシア人ばかりで、給仕をしていたのは美しい白系ロシア人の娘だった。

一般に白系ロシア人は、満洲事変以降、日本人によって保護されるようになり、ようやく安心して暮らせるようになった。そのため日本人を心から尊敬し、日本語も熱心に勉強しているという。

その結果、言葉が通じるようになるにつれて互いの意思も通じ合うようになり、日本人と結婚する白系ロシア人の女性も多くなった。また、喫茶店で働く美しい金髪の娘と恋愛関係になる日本人青年も、ときどきいるそうである。

喫茶店を出ようとすると、店の外には赤い髭を生やした男が立っていて、戸を開けてくれた。そして手を差し出して金を求めてきた。十銭を手のひらに載せてやると、丁寧に礼をした。この男も白系ロシア人だった。」

 

引用した資料から、少なくともロシア人は満州の様々な場所で就職し、日銭を稼いでいたようです。

また、彼らの境遇的にも満州に行こうと思って働きにきたのではなく亡命先が満州で、そこで働いてお金を稼がざるを得ない状態だったという言い方が正しいかもしれません。

あじあ号も就職先の一つだったのでしょう。

上記の資料を見るとロシア人の、特に女性は当時の日本人からも魅力的で華やかな存在に映っているように見えます。では、働いていた彼らの満洲国での仕事や生活の扱いはどのようなものだったのでしょうか。

実際の境遇

これも結論から言うと、日本人とロシア人の間で賃金格差があったようです。以下は論文の抜粋です↓

同じ職種・同じ職位の日本人労働者と白系ロシア人労働者の間には給料の格差が見られた。白系ロシア人労働者の月収は日本人労働者の月収の三分の一から四分の一であった(1937年現在)。このことから,民族協和を標榜する満洲国において経済面での民族差別問題が存在していたことが言える。

引用:満州国における白系ロシア人の位置づけ:「共存共栄」と「人種調和」社会における東洋人と西洋人の実際の状況 p11 https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/55746/20180322141639618430/oer_049_3_079_108.pdf

 

また、以下は日本人と満州の労働者の賃金についての資料です

満州人労働者の教養知識の程度、生活状態をみるに少数の熟練職工を除き凡てが最も低級なる労働者に属することは多くの例證的字句を要しない。ただ少額の賃金を得て生活をなす以外何らの要求をも持たず唯々諾々ごして終日労働して倦くことを知らない・・・同一作業で同一能率を挙げ得たごしても彼らの所得は邦人の半分にも及ばない。

引用:満洲労働事情綜覧 昭和11年版 第三章 賃金 p41 https://dl.ndl.go.jp/pid/1445646/1/33

※倦く→疲れる、

※多くの例證的字句を要しない→たくさんの具体例や証拠となる文章を挙げるまでもない(AIに投げました)

 

ここの満人とは、おそらくロシア人以外にも朝鮮人や中国人なども含まれていそうですが、少なくとも日本人と同じくらいの所得が得られていた訳ではなさそうです。

「彼らの所得は邦人(日本人)の半分にも及ばない」と言う記載がありますので、先に引用した論文の「白系ロシア人労働者の月収は日本人労働者の月収の三分の一から四分の一であった」と言う記述もあながち間違いではなさそうです。

また、このような表も同じ資料から見つけました。

 

(赤枠は比較例として囲みました)
賃金を比較するだけでも日本人(内地人)と満州人の間で格差があったことが伺えます。

 

ここから、直接ロシア人と日本人の賃金を比較できるような資料群も探してみたのですが見つけることができず、残念ですが今回は以上とします。

 

まとめ

満州は多種多様な人種が入り乱れる国際都市ですが、裏では生活を工面するために必死だったのでしょう。

あじあ号のウエイトレスの女性達もそのような事情があったのかもしれません。もう少し調べてみたいですが、、資料や書籍が少なく、なんともいえないところです。

 

博多海軍航空隊の日誌から見る雁ノ巣飛行場での訓練と事故

最近以下の資料を教えていただきました。
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C13120490700#1

この資料は博多海軍航空隊の戦時日誌になります。

時期的には、1945年の4/1~4/30までの記録です。

雁ノ巣飛行場で訓練をしていたようです。戦争末期ですので特攻の訓練が記載されています。

以下は雁ノ巣飛行場について調べた記事です(主に保存活動について少し調べたものですが、徐々に追記していければ良いなと思っています)。

 

shimeya.hatenablog.com

 

今回雁ノ巣飛行場およびその付近で行われていた訓練について、簡単にですがこの日誌から見てみようと思います。

訓練

 

ざっくりまとめると、

  • 第十四期飛行特修学生(おそらく第14期海軍飛行専修予備学生?)は全員で27名
  • 特攻訓練を行う訓練生が12名
    • 主に降下、編隊飛行など
  • 残り15名は剣道や行軍、戦備作業を実施

とのことです。

ここの戦備作業で訓練生がやっていたのは、防空壕を掘るなどの作業みたいですね。

また、最後のページに記載がありますが、「第三十九期飛行術練習生」の記載があります。

以降のページにも「第四十一期飛行術練習生」「第四十二期飛行術練習生」などの記載があり、期別にグループで分かれて訓練をしていたようです。

訓練中の事故

上記の第三十九期飛行術練習生も飛行訓練を行っていました。

しかし、4月3日に事故が発生しています。



定着訓練とは、飛行機を滑走路上の決められた位置に正確に着陸させる訓練のことです。訓練中に天候急変、機体大破、とのことなので、着陸に失敗したということでしょうか。

この事故について調べてみますと、当時の様子を窺い知れる証言が残されていました。

(書籍「翼よ永久に」より引用)

名前の一致、昭和20年4月3日という記述から事故の証言と見て間違いないでしょう。

夜の定着訓練で、空と海面で錯覚を起こしたのだろうと記載されていますが、実際に錯覚を起こす可能性はあるのか調べると「空間識失調」というものがあるようですね。

C.光源誤認錯覚
夜間飛行等,水平線が確認できない状況で飛行中に,地上の灯火や海上の漁火を星の光
と誤認し,空と海面または地上の混同を生じてしまう現象。

(空間識失調と航空医学 URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jser/78/4/78_242/_pdf)より引用

 

当日は快晴の夜だったとのことなので、海面の輝きと空の星の光で上下がわからなくなった、、のかもしれません。

証言は生々しく、かつ後悔の念がひしひしと感じられて読んでいて苦しくなります。

慰霊碑についても建立されているのか調べてみたのですが、こちらは確認をすることができませんでした。

まとめ

傲慢な考えかもしれませんが、当時起きた出来事とそれに対して尽力した人のことを覚えている、知っている人が一人でもいれば、少しでも気持ちが救われる人がいるのかなと調べていて思いました。特に事故が起こったことはきちんと心に留めておきたいです。

また、本日は8月15日、終戦の日です。

どのように資料や出来事を後世に伝えていくことができるのか、今回はそれらを考えるきっかけにもなったように思います。

その他(用語のメモ)

  • 警戒警報と空襲警報の違い
    • 警戒警報は敵機が来襲するかもしれない状態
    • 空襲警報は敵機がすでに来襲している状態

名島や相島の名前も確認できました。

また、かなり短いスパンで鳴っていることがわかります。

どうして昔の人は今の人より大人っぽく見えるのか?

最近昔の映像を見たり書籍を読んだりしてますが、昭和の20代や30代の人は今の同じ年代の人と比べて大人っぽく見えます。

かくいう私も26で今年27になる年ですが、昔の映像を見るととてもじゃないですが同年代に見えないなと感じることが多いです。

例を挙げてみますと、、

ジャイアントロボ(1967年) 南十郎役の横山光輝さん(写真右)

 

第三話で敵に銃を向けるシーンですが、ぱっと見30前後に見えるんですよね。

横山さんは撮影時26歳です。

他には第六話の冒頭にてスーツ姿で船に乗っているシーンがあるのですが、ガンガン営業できそうなやり手の30代サラリーマンにしか見えず「同い年に見えないな」と感じることが多かったです。

ウルトラセブン(1967年) キリヤマ隊長役の中山昭二さん

 

 

当時37歳(38歳?)ですが、貫禄がありすぎて最近まで48~52ぐらいの歳だと思っていました。

隊長職の厳格さを表現しているのかもしれませんが、少なくとも私の知っている30代後半の方でここまで貫禄のある人はいないです(^^;;

また、少しずれますが以下は書籍「翼よ永遠に」のp125より引用です。

(おそらく1945年?)

さっき帰ってきた数名の隊員が、一団となって駆け足でやって来る。一斉に敬礼、異常なかった事を地上指揮官に報告する。十七、八歳とは思えない頼もしき姿である。

上記の記載は飛行訓練中の隊員たちの様子を筆者が回想したものですが、「あ、当時の価値観でも今と変わらず若手は若手として見られてたんだな」と妙に納得した一節でした。(そりゃそうだろと思われるかもですが)

そのほか、引用はしませんが当時の日記や記録などを読むと、日本語の使い方が今と比較してとても丁寧な感じがします。

考察

あくまでも自分の考えですが、、

→昭和後期に仕事で活躍していた方々は戦争という激動の時代を生き、生と死の境界を体験したり親から直にその話を聞いたりして育ったからこそ、「生」という価値の重さを現代人以上によく知っているため

→戦後の占領政策や加速度的に普及した欧米文化によってそれまでの当たり前がすり替わり続けた結果、今の価値観で見ると行動やファッションが大人っぽく見えるが、当時はそれが当たり前だっただけだということ

→日本語も毎年広辞苑に言葉が追加されるように時代に沿って新たな言葉が出現したり、今に至るまでに元々持つ意味からズレたり(「貴様」とかですね)することを繰り返していることから、昔の資料の言葉遣いと比較して現代の言葉遣いを幼く感じてしまったため

などが理由ではないかなと思いました。

まとめ

別に現代になって悪くなったとかそんな事を言いたい訳ではないです!

ただ、今と昔で比べると、やっぱり当時の方々って大人っぽく見えるんですよね。

何が理由なんでしょう?私も髪を挙げておでこ出す髪型にすれば当時の方々の持つ(大人っぽさ)に近づけるのでしょうか。(笑)

福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)について_保存活動

はじめに

福岡市東区の雁ノ巣レクレーションセンターは今スポーツ施設として運営されていますが、施設が開設する前はブレディ飛行場という名前で米軍の飛行場として使用されていました。

さらにその前は福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)として日本の玄関口としても運用されています。

1936年の開設当時は日本最大級の国際空港、東洋一の空港だとも呼ばれていたらしいです。

そんな空港だった福岡第一飛行場ですが、その姿を今に伝えるような史跡が非常に少なく、調べても正門跡や滑走路の跡、海の中道の方に掩体壕が存在していたという情報しか得られず、看板の一つも立っていないので当時保存活動などが実施されなかったのか個人的に調べてみました。

格納庫

2002年まで残存していました。

しかし、下記のブログに以下のような記述がありました。

博多湾に浮かぶ人工島アイランドシティに通じる道路が格納庫のすぐ横に建設された際、危険だとして解体されてしまったのでした。
http://allxa.blog114.fc2.com/blog-entry-638.html

また、1992年3月23日の朝日新聞に「格納庫の痛みがひどい」という記述があったようです。

(参考:雁の巣 福岡雁の巣飛行場開設六十周年記念誌)

これらの情報から、おそらく格納庫は後世に残そうとしても残せなかったのでしょう。

保存活動

しかしどうやら保存活動自体はあったらしく、「九州空の会」というボランティア団体が上記の格納庫の保存や福岡市東区に航空博物館の開設を求めていたようです。

ただ、団体は現在名前を変更して活動しているのか、あるいは雁ノ巣飛行場の保存活動のために立ち上げた団体なのか不明な点が多く、調べきれませんでした。

今に至るまでに博物館も開設されていないので、おそらくどこかで頓挫した可能性が高いと思われます。

今後も継続して調べてみようと思います。

最近雁ノ巣飛行場について調べている

最近雁ノ巣飛行場について調べています。

 

雁ノ巣飛行場とは、1936年に現在の福岡市東区雁の巣に開港した国際空港です。戦後は米軍に接収されて「ブレディ飛行場」に名称が変更、1970年代に日本に返還されました。「福岡第一飛行場」とも言われ、かつて日本最大の国際空港、あるいは東洋一とも称されるほどの規模を誇っていた国際空港です。

現在は雁ノ巣レクレーションセンターとして市民の憩いの場になっています。

 

調べ始めた理由としては、私は福岡市出身にも関わらず地元に当時日本最大の国際空港があったということを最近知りまして、どんな場所だったのだろうと試しにGoogleで検索してみたのです。

しかし私の検索の仕方の悪さもあるでしょうが、、、当時の様子や残されたアーカイブというものがあまりにも少なく、「日本最大の国際空港と言われているのになぜこんなに資料が少ないのか?」と思い、好奇心が動かされました。

 

また、私はもともと歴史を調べるのが好きです。

どれぐらい好きかと言いますと、明治時代から昭和の戦後にかけての出来事を図書館で調べたり、東京の神田で古本を探して読んだり、太平洋戦争の各地の戦いを戦史叢書で一読するぐらいには好きです。

 

話を戻しまして、兎にも角にも調べております。

 

他の方のブログ写真を見てみると、米軍の使用していたマーストンマット(飛行機の臨時の滑走路として使用される穴あき鋼板)の設置後らしき痕跡や正門跡に石碑が建てられているみたいです。

実際に雁ノ巣レクレーションセンターに痕跡を見るためにいつぞやか行ってみようと思っています。なかなか時間が取れず、しかもこれから暑い時期に入るのがネックですが。。

 

個人的に一番疑問に感じているのが、東洋一とも称された国際飛行場であるならば保存活動の実施や看板の1つや2つ立っていてもおかしくないのに、そのような動きが確認できないことですね。

格納庫は2002年に取り壊されたようですが、おそらく痛みがひどいとかそのような理由で壊されてそうな気がします。。

 

まだ調べ始めたばかりの段階なので継続的にまとめれたらいいなとは思っています。

こういう調査は自由研究みたいで、ちょっとワクワクして良いものですね〜

6年ぶりのログイン

6年ぶりにはてなブログにログインしました。

 

当時19歳で始めたブログは見事に3日坊主になりました。。

今は25歳です。

 

色々あり今は無職で時間があるので、何か投稿できればいいなと思っています。

「ホームセンター → エンジニア → 無職」 と言う経歴を辿っております。

エンジニアはweb系をやらせていただいておりました。少なからず経験があるため、再就職もそちらの方面で考えています。

勉強用の技術ブログとしても活用できたらいいなと思っています。

 

過去のブログも見返しましたが恥ずかしいですね。

ベットに飛び込みたくなります。うわーー。

 

改めてよろしくお願いいたします。